概要とあらすじ
1952年のメアリ・ウェストマコット名義6作中5作目。
若くして夫を亡くしたアン・プレンティスは、一人娘のセアラと仲良く暮らしていた。ある時セアラは三週間の旅行に出かけた。娘がいない間に出会った東洋帰りの実業家、リチャード・コールドフィールドとアンは意気投合する。アンは再婚を決意するのだが、旅行から帰ってきたセアラはそれが気に食わず…
みどころ
登場人物がそれぞれずーっと喧嘩しています。登場人物たちは何かしら欠点はありますが、基本的には善人ばかりです。でもなぜかおかしな方に、話が転がっていくところが面白いです。
会話中心で、とても読みやすいです。ページがどんどん進みます。一気読みですね。内容は喧嘩ですが、わりとカラッとしていますので、読んでいて気が滅入るようなことはありません。人の揉め事や不幸話は、自分に関係しないなら面白いですよね。ワイドショー的な楽しみ方です。
感想
登場人物たちの主張はそれぞれもっともですが、実は全然かみ合っていません。リチャードとセアラはもちろんですが、アンとセアラも大概です。
アンからすれば、「なぜ結婚をとめたのよ!」ですし、セアラからすると「なぜ結婚をとめてくれなかったのよ!」です。そりゃ世の中から争いごとはなくならないよなぁ、と思わせられます。
アンの言動は一貫しています。「干渉しすぎない」と、いつも言っています。そこに加わるニュアンスが、その時々によって変わりますが、表面に現れる言葉は一貫しています。
ハッピーエンドな感じで、読後感は良いです。ですが冷静に考えると、彼女たちは勝手に喧嘩して勝手に仲直りしています。いったい何を見せられているのだろうかと、少し苦笑いをしてしまいます。
またよくよく考えると、
アンは別れさせようとしていたはずのジェリーとセアラの関係を、結局認めます。ですがこれって表面的にはロレンスの時と同じなんですよね。となるとジェリーとの関係がうまくいかなかったら、セアラはまたアンと揉めるんじゃないかなぁ。それはさすがに考えすぎでしょうか。
また、アンはセアラとリチャードにどちらを選ぶのかと迫られていました。同様に読者である私たちにも、アンとセアラのどちらが悪いのかと尋ねられているような気もしました。ただ、二人ともに自業自得な気がするんですよね。
彼女たちは、相手の気持ちを考えて行動しているように見せかけて、結局自分の思うとおりに行動しています。その結果思わしくない方向に進んでしまい、文句を言われても「そんなこと知らんがな」という感じですね。
「自己犠牲とはどうあるべきか」という、重めのテーマにも触れています。ですので、軽い読書感のわりに、深く読み込めばそれなりに考えさせられる作品だと思います。
また「春にして君は離れ」は毒親テーマの作品でした。それはクリスティー自身の母親への意識があったかもしれません。それに対して「娘は娘」はクリスティーが母として、自身の娘に対する態度を描いた作品とも取れます。
というのも過干渉ぎみの母親に対する(無意識の?)反発からか、クリスティーは自身の娘に対して、放任主義的な教育を行っています。その態度が「娘は娘」の主人公アンの態度に現れているように感じるからです。
などなど、なかなか考察のやりがいがある作品でもありそうです。
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