概要
1937年のポアロ長編33作中15作目。クリスティは、この作品の着想を、1933年に夫とともに乗船した蒸気船「スーダン号」のクルーズ旅行から得たと言われています。
あらすじ
大富豪で美女のリネットは、親友ジャクリーンから奪う形で、彼女の婚約者であったサイモンと結婚する。ジャクリーンは二人に恨みを持ち、ストーカーのように彼らの新婚旅行先に現れる。そういった不穏な空気の中、ナイル川の観光船の中で殺人が…
みどころ
ポアロがいい味出しています。「ナイルに死す」のポアロは、他の作品とは少し違った雰囲気です。ヘイスティングズがいないためもあるでしょうが、あまり軽口をたたかず少しシリアスな感じです。そして父性を感じるというか、懐の深さを感じさせます。
リネットとポアロの会話、ジャクリーンとポアロの会話、どちらもすごいです。言葉で殴り合いをしているかのような感覚です。リネットVSポアロは、ポアロの勝ち。ジャクリーンVSポアロは、引き分けでしょうか。
アラートン親子がけんかになりそうなので、話題を変えるポアロですが、その変えた話題が伏線となって、後で回収されるなど、そういった細かい仕掛けがたくさんあります。読み直してそういうものを探すのも、この作品の楽しみ方でしょう。
登場人物について
この作品はかなり登場人物が多いです。リネット、サイモン、ジャクリーンの三人はもちろんですが、それ以外の登場人物たちも、それぞれ生き生きと描かれています。
その中でも、コーネリアがやはりいいです。なんか肩入れしたくなるんですよね。ファンソープの耳が赤くなるところも面白いですし、ロザリーのツンデレなところもいいです。登場人物それぞれの名前を見ると、何かしらのシーンが浮かんできます。
最初は登場人物の中で埋もれていましたが、だんだん存在感を増していき、ものすごいキャラが立ったところで、最後に足元をすくわれるファーガスンの感じも面白いです。
それぞれの見解
「リネットの見解、ジャクリーンの見解、サイモンの見解。このうちどれが一番真実に近いものかな?」とポアロは言います。それぞれの見解を確認してみましょう。
リネットの見解
- 二人(ジャクリーンとサイモン)はどうみてもお互いに性質が合わない。
- 私に会う前でさえ、もう彼は自分が間違っていたって気づきはじめていた。
二人が別れたのは、自分のせいではないというスタンスですね。
ジャクリーンの見解
- あたしたちはお互いに愛し合っていた。
- あたしは月でした……太陽が出た途端に、サイモンの目にはあたしが見えなくなってしまったのです。
- 彼女(リネット)の方でしかけさえしなければ、サイモンの方から、彼女を愛したりなんか絶対にしなかったんです。
リネットがサイモンを誘惑したという考えです。
サイモンの見解
- 太陽が出た時の月みたいなもの。彼女の存在がうすくなった。リネットに会った瞬間から、ジャッキーは存在しなくなった。
- 自分が愛している以上に女から愛されることなんか、あまり望まない。男って女を所有したいんだ。女に所有されたくはないんです。
太陽と月のたとえが、ジャクリーンと共通しています。これは何かを意味しているのでしょうか。
もしかすると、あらかじめ二人で打ち合わせていたのかもしれません。あとでよりを戻すときに、無理がないようにしていたのでしょうかね。
ポイントは二つ目の内容です。ジャクリーンのことを言っているようで、思わずリネットのことを言ってしまっているんですね。
ポアロが「ジャクリーンに対してそう感じているんですね」と言うと、「ええ、そ ── そう、まあそうだったんです」とうろたえています。
落石事件
大きな岩が転がり落ちてきて、リネットに当たりそうになった場面。ここでサイモンはリネットを自分の方に引き寄せて、助けます。
そのまま放っておけば、リネットは死んでいたはずです。リネットを引き寄せたのは、反射的にしてしまったことなのでしょうか。そうするとサイモンって、実はいいやつなんじゃないでしょうか。
そのあとサイモンは「畜生! あの女め!」と怒ります。この岩を落としたのはジャクリーンだと、サイモンは思っての発言でしょう。あるいは、
「下手すると、俺も死んでいたかもしれないじゃないか。計画にないことを、勝手にするなよ」という怒りでしょうか。
リネットは睡眠薬で眠らされていた?
リネットは殺されるときに目を覚ましませんでした。ブリッジをやめるときに「眠くなったわ」と言っていましたので、睡眠薬を飲まされていたのでしょうか。ですが、それに触れられている場面ってありましたっけ?
「彼女がどんな顔していたか憶えてますか」とポアロは言っています。死体の様子は「ごく自然な穏やかな様子」でした。ポアロはレイス大佐の意識を、そこに向けようとしています。
つまり入ってきたのが夫だったので、安心して特に気にせず眠り続けたというのが、正しい解釈なのでしょうか。いや、でもサイモンの部屋は別なので、入ってこられたらびっくりして、何かあるはずですよね。うーん…
なぜピストルは河に捨てられたのか。
ピンクのハンカチ
サイモンは、赤インクに染まったハンカチを、河に捨てなくてはいけません。それを沈めるために、ピストルを使ったということでしょうか。しかし、これは犯人のミスですね。絶対にハンカチとピストルは別にしなくてはいけません。関連付けられるからです。
だいたい、リネットのところに向かう途中で、ハンカチは捨てられたはずです。ハンカチを沈めたければ、赤インキの瓶を使えばいいです。いや、それはそれで関連付けられてまずいかなぁ。
ビロードの肩掛け
サイモンはビロードの肩掛けをピストルに巻き付けて、自分の足を撃っています。これは自分の足に銃の焦げ跡がつかないようにするためです。つまり焦げ跡のあるビロードの肩掛けが現場にあれば、その作為がばれるのでまずいです。
そこでビロードの肩掛けを河に捨てるのですが、足を撃って痛みに苦しんでいる状態では、ピストルからビロードの肩掛けを外して、それだけを河に捨てるなんて悠長なことはできません。それでピストルごと河に捨てられたというのが、正しい解釈でしょうか。
とはいえ、結局発見されていますから、それも意味がありませんでした。しかもビロードの肩掛けとピストルが、セットで見つかっていますから、作為がばれやすくなっていますよね。
嫌疑をずらす
サイモンとジャクリーンは、互いのアリバイを作ることができました。ただそれだけでは不十分です。他の人に嫌疑を向けなくてはいけません。そこでピストルを誰かが持って行ったとするために、ピストルを河に捨てたのは、あり得る話です。
ただ、サイモンはピストルが置きっぱなしになっていることを、ファンソープに伝えます。これは銃がそこにないことを確認させたかったのでしょうが、そんなことをしなくても、翌日になればピストルがないことは確認されます。
ジャクリーンには付き添いがいて、サイモンは足を怪我しているので、それ以降は殺人を犯せません。わざわざピストルがなくなった時間を、限定させる意味があったのかどうかよくわかりません。
河にピストルを捨てた理由として、三つ挙げました。ポアロはこのピストルのが河に捨てられたことが、この事件のポイントみたいなことを言います。ですがその割に、なぜピストルが河に捨てられたのかの理由を、バシッと言っていないんですね。
わたしとしては、上にあげた全てが当てはまると思います。ですが問題は犯人が、三つをまとめてやってしまったことです。結果としてその三つを関連付けて考えられてしまい、真相につながってしまいます。とはいえ、別の方法があったかというと、難しいですかねぇ。
レイス大佐について
レイス大佐が出てきます。彼は「ひらいたトランプ」でポアロと共演した人物です。本文にもその記述があります。
「ひらいたトランプ」では、レイス大佐はそれほど活躍はしていません。なのでそれを読んでいないと、この作品でついていけないわけではありません。ですが、読んでおいた方が多少、イメージが膨らむかなとは思います。
またレイス大佐の初登場は「茶色の服の男」です。なので本当なら「茶色の服の男」→「ひらいたトランプ」→「ナイルに死す」の順に読むのがよいでしょう。
「オリエント急行の殺人」について
また「オリエント急行の殺人」の小ネタのネタバレが、本作品には含まれています。なので「オリエント急行殺人事件」も先に読んでおくべきです。
ただこれは、大したネタバレではないので、気にしになくてもいいかもしれませんが。
黄色い部屋の秘密、オペラ座館殺人事件のトリックについて
さらにガストン・ルルー作、「黄色い部屋の秘密」のメイントリックの一つが、「ナイルに死す」ではミスリードとして使われています。なので「黄色い部屋の秘密」を楽しみたいのであれば、「黄色い部屋の秘密」を「ナイルに死す」より先に読まなくてはいけません。
また「金田一少年の事件簿」の「オペラ座館殺人事件」では、「黄色い部屋の秘密」とまったく同じトリックが使われています。なので「オペラ座館殺人事件」の扱いは「黄色い部屋の秘密」と同じになります。
ただそのトリックを知らない方が、ミスリード一回分「ナイルに死す」をより楽しめます。そう考えると、「黄色い部屋の秘密」「オペラ座館殺人事件」は読まずに、「ナイルに死す」を読んだ方がいいかもしれません。
犯人について
犯人の恐ろしさと哀れさは、クリスティー作品中の最上位でしょう。「エッジウェア卿の死」の犯人の恐ろしさと、「ホロー荘の殺人」の犯人の哀れさを併せ持った感じがあります。
犯人の告白の様子は、ジャクリーンを越えた崇高な感じがあったように思います。そして「ばかな勝負して、あたしたち負けただけよ。ええ、それだけなのよ」という最後のセリフが何とも言えません。
サイモンを安心させようとする優しさというか母性というかそういうものと、けじめは自分でつけるという気高さと潔さを感じさせます。犯人の自殺という結末は、あまり好みではないのですが、この「ナイルに死す」に関しては、その結末以外には考えられないと思いました。
坂口安吾の「不連続殺人事件」の結末が私は好きなんですが、それに匹敵するくらいの名シーンです。
ひとつ不満点としては、
最後にジャクリーンがピストルを持っているのを、ポアロが知っていたことです。
ここはむしろポアロが犯人に、出し抜かれてほしかったです。そうすることによって、クリスティ史上最高の犯人像が完成したのではないかと思いました。
感想
内容としては、前半部分の事件が起こるまでが、抜群に面白いです。そして事件が起こると、ややトーンダウンします。少し尋問や調査が退屈ですかね。
ですが、事件周辺の小さな謎たちが、解決していくにしたがって、また盛り上がってきます。そして関係者を集めての解決編で最高潮に達して、犯人の告白できっちりと閉められます。この犯人の告白もよかったですね。全てが腑に落ちる感じです。
そしてエピローグです。クリスティーおとくいの、カップリングタイムがあります。誰と誰がカップリングされるかを、想像しながら読んでみるのもいいかもしれません。今回は予想外のカップリングがありました。ここはほっこりさせられます。
そしてその直後にある出来事が起こります。私はこれに唖然としました。カップリングタイムでほっこりさせられた分、その落差でやられました。最後の最後まで気を抜くことができません。しっぽまで楽しめる作品と言えるでしょう。
正直トリックとしては、少々ずさんな気がしないでもないです。ただ、それを補って余りある物語性がこの作品にはあると思います。文句なしの★5です。
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